いろいろな話260

 

自分のために 

 


先日娘がやってきて、

「なあこの問題教えて。」

そう言って数学の問題を持ってきました。

「え〜どれどれ、以下の式を簡単にせよ…?」

logaA+…

見るとそれは「指数対数」の問題!」

なんとまあ、30年ぶりくらいの再会です!

「たしか、足し算が掛け算で、引き算が割り算だったな…」

とはいうものの、公式や定理ははるか記憶の彼方!

うんうんうなる私に娘が。

「わからんかったらもうええよ」

しかししつこい私は、

「ちょと待て!」

問題を前にエンピツ片手にうんうん。

娘は奥さんの下へ行き、

「もうええって言うてるのになぁ…」

奥さんは答えて、

「言いだしたらしつこいから放っておき。」

結局1時間ほどかかって6問全部解いたのですが、

娘はもう興味を無くしていました。

!(・∀・)「でもええんや!」

これって傍目には勉強熱心なええお父さんでしょ?

でも本当は違うんです。

これは娘のためにやったのではなく、

解けない自分が許せなくて、それが悔しくて我慢できないので、

つまりは、自分自身のためにしていたのですよ


またこういうこともありました。


とある方とのやり取りの中で、

その方が寄付をされた話があり、その行為を自分で「偽善」と述べておられるのを受け…

こういうものは、無償の行為が美徳と思われがちですが、

「無償の行為」といいながらも、「自分自身の気持ちを満足させるため」という動機が必ずあるはずです。

その「自分の気持ち」の中には、

「このままこの状況を見捨てては置けない」や

「なんか申し訳ない」や、はたまた、「周囲からよく見られたい」

などなども全部含みます。

でも、私はそういう動機がどうであれ、

その行為自体は常に評価されるべきものであって、

行動を起こさないで、口先だけの批判評論する行為よりもはるかに意味があると考えております。

たとえそれが完全な「偽善」であっても、その結果が「善」の効果があるならば、

紛れもなくそれは「善」

「偽善」「悪」「善」そういうものは人の心の中にあって見えないのであって、

表に出なければ、つまりは行動を伴わなければ、それは絵空事、意味のない念仏お題目。

そういうものには、まったく物事を変える力などないのです。

それらにできるのは、何もしない、できないことのいいわけと、意味のない安心感。


だから私も細々と援助してます。

むろん、それで大きく何かが変わるとは考えていませんが、季節ごとにやってくるお手紙や、カード

これらの楽しみを得る代価だと時には割り切って…


でも小さかった赤ん坊が、いつの間にか大きくなって、

「おかげで学校に行けるよ!」と喜んで手紙をくれたり、

小さな男の子だったはずが、

「無事卒業し仕事に就きました!」

なんていってくれると、「ふふふ〜ん♪」とうれしくなっちゃいます。

私流に言うならば、

そういう喜びは、今まで投資した分の回収?

(=^^=)ゞ

やっぱ、結局は自分のためなんです。



とまあ、こういうことを私は述べておりました。

ここでもやっぱ、私の行為の動機は「自分のため」だったのですよ。



だから私は良く思うのですが…

ほら、よくすごい偉業を成し遂げた人や、慈善事業に取り組んでいる方たちを見て、

「ああ立派な人々だ、それに比べて自分はなんとなさけない。」

とかいう人いるじゃない?

でも、私自身は前述のような動機で動く人間なので、そういう方たちを見ても、

「あの人はあそこのああいう惨状を見逃すことが我慢できなかったのだな。」

「ああこの人は、誰が止めてもこういうことを成し遂げたかったのだな。」

つまり、

「ああ、立派な人だなあ。でも、この人は
こういうのをしたいからするのだな。」

とそう受け止めてしまうので、先のように「なさけない」とは思わないのです。

誤解の無いように付け加えますが、

偉業などに関しては尊いもので尊敬し、尊重し、感謝すべきことだと当然認めております。

ただ、だからといって必要以上に自分を卑下しないだけなのです。

そういう考え方をしていると、気持に焦りもなくマイペースですごせるような気がします。



でも実は、自分のしたいこと、または見逃すのに我慢ならないもの、

そういうものをはっきり持って、それを曲げずに行動に移せる人は意外に少ない。

大抵は、それらの実現に伴なう障害やわずらわしさを嫌がって、

本来したかったことを曲げてしまうし、見ていたことを見なかったことにしてしまう。

でも、それでええの?

楽な道のほうが、今はいいに決まっているけれども、

本当に「自分のため」なのかどうか、もう一度よく考え直すべきだと思う。

したいことには躊躇せず手を出して、

見てしまったことはしっかり見つづけて、

そうした後、何も出来ずに後悔するとしても、

当初から何もしなくてする後悔よりも、

まだ幾分救いがあると思います。

無論表には出てこず誰も気づかない、自分自身の気持の中だけの話ではありますが、

まぎれもなく自分自身のためだと思います。



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