いろいろな話270

 

義を見てせざるは・・・

 

義を見てざるはせ勇なきなり。」

(意味:人として当然行うべきことと知りながらそれを実行しないのは、勇気がないからである。)


果たしてそうでしょうか?

私はいつも疑問を抱いております。

「見てせざる」とは、見てみぬふりと同じではないでしょうか?

勇気がないレベルの話ではなくて、

むしろそれは、場合によっては加害者の行動と同レベルのものではないでしょうか?




実は私の娘が小学生だった時のこと。

学年違いの女の子で、陰湿ないじめに会っている子の話を聞きました。

でも話聞くと、その子供のクラスメートの親や、PTAの人たちも、

「かわいそうだ」とは言うものの、誰もアクションを起こしていない!

私はそれが不思議で、そしてそれが腹立たしくて…

で、結局学校などに話をしに行ってしまいました。
(その後の展開は長くなるので割愛します)


また別の時は、近所の八百屋のおじさんがややこしそうな若い子に絡まれていました。

近所の人は皆その場にいるのに、見ているだけでなにもしない!

このときも、ガマンできずに出て行ってしまいました。
(面白いオチになるのですが、やはり長くなるのでこれも割愛


これらのときの気持ちが、まさに冒頭で述べているものだったのです。

結果的に、その行為が効果的であったか、もしくは自分がしゃしゃり出るべきであったかどうか。

無論そういうことも、いや、そういうことこそ、

本来は行動を起こす前に考えねばならないことであるのでしょうが、

それは承知の上で、どうしてもガマンできなかったのです。



周囲がかわいそうだと同情している間も、問題は継続して起こり続けています。

当事者はその間もずっと一人で追い込まれています。

たとえ、最善のてだてを考えていると思っている間でさえも、

当事者に対して語りかけねば、相変わらず当事者は一人ぼっちです。



法律上「無作為の罪」というものがあります。

何かをしたから罪になるというのではなく、何もしなかったから罪になるというもの。
(たとえば、危険な場所に安全な対策を講じなかったとか…)



「義を見てせざる」も無作為の罪だと思います。

ただ、法律上のそれとは違い、一般に決められた罰は存在していません。

ですが、そのことに気づくと、勝手に罰が与えられてしまいます。

それは、自分自身の心の中で急にわきあがってくる感情。

いわゆる
「罪悪感」

「私はあの時、見過ごしてしまった…」

きっと、折にふれそう思い起こしてしまいまうはずです。


そっして、そのたびに胸が痛くなる。


ただ、人によっては全くそういう感情を抱かない人も存在し、お気楽にその後も暮らしていることが良くあります。

考えれば、これは不公平?

でもそうではない。

実はこういう風に罪悪感を持たないものは、

いまだ自分の「無作為の罪」に気づかず、相変わらず罪を重ねているいわば「犯罪者」

だから、罰である反省も罪悪感も持たないのです。



私は、「罰」を与えられるのは嫌だし、ましてや「犯罪者」になんかなりたくない。

だからこそ、動き出したくなるのです。



そういう理由で、最近はこう思っております。


「義を見てせざるは、なりけり」



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